私の両親の実家は鹿児島。
祖父母だけではなく、親戚のほとんどが鹿児島に住んでいます。
父方の祖父は、13年前に亡くなりました。
今回は母方の祖父の話です。
おじいちゃんは、数年前から施設で暮らしていましたが、1月に骨折したとかで病院に運ばれ、手術をしました。
2月下旬に退院して、施設に戻る事に。
ここから車椅子生活が始まりました。
3月の中旬に酸素濃度が急に下がって、救急車で運ばれました。
肺炎で水が溜まっていて処置してもらいました。
その時に医師に、「いつ何があっても驚かないで下さい。苦しまない方向で行きましょう」と言われたそうです。
私はこの頃、第二子(楓)を妊娠していて、出産予定日は4月。
入院中は、琴(娘)を実家で見てもらい、出産後は私と楓も一緒に里帰りをする予定でした。
私が出産の時に、おじいちゃんに何かあって両親が鹿児島に帰ったら?
琴や私はどうするの?(>_<)
おじいちゃんの事はもちろん心配ですが、その頃自分の事でいっぱいいっぱいで‥
10日程経って、母が病院に連絡したら、少しずつ良くなっている。物は食べないので、鼻から栄養を入れているとの事でした。
ひ孫、もうすぐ生まれるからね。
おじいちゃん、頑張ってね。
思いが届いたのか、おじいちゃんは頑張ってくれて、無事に里帰りができました。
鹿児島に住んでいる叔母家族や姉家族が、たまに会いに行って、状況を伝えてくれていました。
そして7月14日、入院中のおじいちゃんの酸素濃度が70を切っていて、危険な状態だと連絡が入りました。
でも、コロナもあり、面会ができない状態。
翌日、酸素投入をしたら、92に上がったそうですが、肺炎をおこして、熱が出ていると。
医師からは「すぐにもどうこうという状態からは脱したかもですね。」と言われたそうです。
16日の朝、父から電話がありました。
いよいよ危ない。会える人は早く会いに来るように、病院から連絡が入ったそうです。
両親も翌日の17日から鹿児島に帰る事にすると。
私も琴と楓を連れて帰ろうかとも思いましたが(旦那は一緒に帰るのは難しそうだったので)、前日に決まった話だったし、もし亡くなって通夜とか告別式とかになったら、かえって子連れだと迷惑になってしまう。
両親とも相談して、今回は諦めるように言われました。
最後になるかもしれないし、会いたかったけど、母親になった以上、自分だけじゃなくて、子ども達の事も考えなくてはいけません。
その病院では、県外から来る面会の場合は、コロナの陰性の証明が必要でした。
空港で抗原検査をし、翌日PCR検査を受けて陰性。
19日の朝、両親はすぐにでも会うように言われ、面会しに行きました。
酸素濃度が70切って、荒い息を繰り返していて、目は薄く開いていたものの、反応はなかったそうです。
両親、とくに母が面会ができてよかった(>_<)
7月20日、午前6時21分、永眠。
母と叔母は最後看取れたようです。
違う施設に入っている祖母は、20日の午前中に面会、そして姉は20日の午後に面会に行く予定だったそうです。
最後会いたかっただろうけど、娘2人がいる中で最期を迎えられたのは、おじいちゃんにとってもよかったんじゃないかなと思います。
7月27日は、おじいちゃんの90歳の誕生日でした。
誕生日は迎えられなかったけど、長生きしてくれたと思います。
いつも会いに行くとニコニコしていて、強く握手をしてくれたおじいちゃん。
「おじいちゃん、痛いよ!」と言うと、嬉しそうな顔をしていたおじいちゃん(^-^)
社会人になってからは、会うたびに「あんたは彼氏はいないのね?おじいちゃん達が元気なうちに会わせてね、結婚してね。」って言ってたよね。
旦那を鹿児島に連れて行った時は嬉しそうだったな。
琴を産んで、家族で鹿児島に行った時は、もう施設にいました。
コロナも合ったので、壁越しに。
耳が今まで以上に遠くなってて、ホワイトボードに書いて見せて、施設の人に読んでもらいました。
認知症もあるけど、私達の事、琴の事分かってくれてたかな?
楓も見せたかったな~(>_<)
おじいちゃんの事、忘れないよ!
最後、お別れに行けなくてごめんね。
49日は、必ず会いに行くからね!
今までありがとうございました。
大好きです。